映画において、光の貧しさと豊かさこそがその表現の本質であり、人間存在やその記憶の在り方についての物語を素描するとき、この特性を充分に活かしてやれば作品は容易くできてしまうだろう、と黒沢清はほくそ笑んでいるのではなかろうか。
くだけていってしまえば、画面の中で光が増加したり、減少したりすることと、人の存在の明滅、記憶の浮沈をシンクロさせてやれ、という演出である。
昔、松浦寿輝がタルコフスキーの映画は、カラーであったか、モノクロームであったか、忘れてしまうような色彩の印象の薄い、漂白された映画と評したことがあった。一方この黒沢作品は、色がすーっと引いていたり、ぐぐーっと影が濃くなっていったりと、色彩の漂白運動が画面内で立ち起こり、色の濃さと薄さ、光の強弱(つまり光と影)が、存在の消失、記憶の漂白としだいに同期しはじめ、我々は今眼前で起きているシーンの時制と空間が、ぐらぐらと揺らいでゆく。
プログレッシブ(=平板)なデジタルシネマの時代において、光の明滅という、映画の根源的価値を差し出した作品とも言えるかもしれない。
死んで亡霊となった夫と、夫の過去へのわだかまりが消えずに苦しみ続ける妻の再会と旅の物語は、いつか記憶が消えてゆくように、最後には消えてなくなるという運命を、見る者は誰しも予感せざるをえず、そのいつ訪れるか分からぬ「決定的終焉」に怯えながら、カップルの時空を超えた邂逅はつづく。
最も感動的なのは、一瞬一瞬生起するフィルムの現在が、男女の過去の記憶であり、失われゆく未来でもあるという同時体験を、映画の光の明滅とともに見る者がひりひりと感じつつ、男女の束の間の幸福に身を委ねたくなる快楽と相克しながら、耐えるサスペンスにあった。