被爆から68年目におもう

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被爆まもない長崎市内を撮影したカメラマン山端庸介の写真を見直した。
言葉を圧殺する惨たらしい光景。
黒こげの母の遺体の前で、呆然と立ち尽くす少女。
自分の理解を超えた強大な破壊に、魂ごと押しつぶされたような。
あらためて核と戦争の、超越的な抹殺力を思い知る。
たかが国境という人間が決めた境目のために、互いを殺し合うことは愚かきわまりないし、
権力を持つごく一部の人間が、他国であろうと自国であろうと、多数の一般市民を虐殺することなど、決して許されてはならない。
   NHK 「長崎原爆 映像の証言 115枚のネガ」 http://is.gd/As0pQI
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舩橋清子。
幼いころ、広島の祖母に原爆で亡くなった叔母の名前を聞いた。
ちょうど小学3年生だったろうか。洋服店を80を過ぎても一人で切盛りするしっかりものの祖母が、涙ながらに語ってくれた「キヨちゃん」の話を今でもはっきりと覚えている。
ちょうど今日のような暑い夏、父と僕ら家族が広島に帰省したとき、夏休みの自由課題にしようとなんの気なしに質問した「ピカのこと」。8月6日の朝、祖父は勤務先で祖母は爆心地から2キロの自宅で、父は祖母の胎内(6ヶ月)で被爆した。「キヨちゃん」こと叔母(当時13歳)は、市の中心部にあった軍事工場で工員として働いていた。祖父が市内を探しまわって叔母を見つけ出し、押し車を借りてその上に叔母を乗せて徒歩で帰宅した。「水がほしい、水がほしい、いうけぇキヨちゃんにずっと水をあげよったんよ」祖母が涙をぼろぼろ流して話すのを、小学生の僕はどうして良いか分からなかった。父が間に入り、「ばあちゃんがかわいそうじゃけぇ、もうこれぐらいにしとけ」と止め、祖母を慰めた。
結局「キヨちゃん」は、祖父母の看病も虚しく翌7日に息を引き取った。
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自分は被爆二世であることにずっと無自覚で生きてきた。
いや正直に告白すれば、広島、そして成人後何度か訪れた長崎の街が背負う「ピカの影」、その暗い、御涙頂戴的な悲話に辟易していたところもあった。
それは自分を被害者として、他人に乞い諂うことがどこか無様と感じている生理的反応だった。もっと強く生きられないのかと思う、いかにも他人事な感覚。健康的影響のまったくない被爆二世として、何も体感していないからこその無関心であり、距離感であった。
しかしそれでも、幼い頃に聞いた祖母の話と、あの涙は痛烈に胸に突き刺さっていた。理解力もなにもない子供にも突き刺さる、被爆の当事者としての祖母の言葉。無防備だった僕を不意打ちし、心から揺さぶった。
いま思えば、あの祖母の言葉が、今の自分の活動に深く響いてきているのかもしれない。
こんなとてつもない不条理を、一般の市民に押し付ける核と戦争だけは、何が何でも許せないという怒りである。
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そして一昨日、父が食道ガンになったと聞いた。
来週にかけてさらに精密検査を受け、来月手術を受ける。抗がん剤治療も必要になるらしい。
被爆の影響は68年間一度もなかったので、そうではないと思うが、それでも父の「胎内被爆」の影響ではないか?と考えてしまう自分を打ち消すことはできない。
祖母は99歳まで生きて大往生した。
父も二世の僕も、健康だけが唯一の取り柄だったがこうなってしまうと、やはりどこかで勘ぐってしまいたくなる。
だからこそ、福島の人々には数十年後こんな思いをしてほしくない。
「被爆」と「被ばく」は違うという知見もある。
しかし、核が、あの長崎の呆然と立ち尽くす少女を押しつぶした、超越的な抹殺力を持つというのはなんら変わりがない。
そして、68年経った今もわれわれ人間は、それを制御する術をまったく知らない。
核/原子力から、人間は一刻も早くさよならをいうべきだと思う。
舩橋淳
(写真は、祖父母、父母と赤ん坊の僕です。)

Atsushi Funahashi 東京、谷中に住む映画作家。「道頓堀よ、泣かせてくれ! Documentary of NMB48(公開中)」「桜並木の満開の下に」「フタバから遠く離れて」「谷中暮色」「ビッグ・リバー 」(2006、主演オダギリジョー)「echoes」(2001)を監督。2007年9月に10年住んだニューヨークから、日本へ帰国。本人も解らずのまま、谷根千と呼ばれる下町に惚れ込み、住むようになった。

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