震災映画というジャンル/フィクションの倫理

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今日「語りかける311映画」として、東京新聞に拙作「桜並木の満開の下に」を取り上げて貰った。
そこでインタビューが掲載されているが、ちょっと自分の考えを補足したい。
映画がフィクションとして、原発事故・被ばく問題を真正面から捉えるにはまだ早いような気が自分にはしている。
理由は、この人類史上2度目のレベル7の原発事故がいまだ収束せず、現実が虚構を凌駕しており、現実そのものにキャメラを向けるドキュメンタリーの方が、よっぽど力があるからだ。現実がはるかに我々の想像力を超越してしまっているのだ。
平たく云うと、映画とはフィクションにせよドキュメンタリーにせよ、あるぐっとくる実感を与えられるか否かが作品の出来そのものを左右する。
その「実感」を「説得力」と呼ぶ人も、「リアルさ」と云う人もいる。
その「実感」にどうやって辿り着くのか。映画作家は、その表現手段、描写方法を必死に考え抜く。
それは、いかに見る人にその「世界」を信じて貰うのか?にかかっている。
ティム・バートンのような人類が滅び去り、猿たちが王国を作り上げた未来の「世界」(「猿の惑星」)を見事に創造してしまう天才もいれば、小津安二郎のようにごく平凡な家庭という「世界」を描きだす作家もいる。 
実際に起きた事件に基づいたフィクションというのも映画の常套手段で、殆ど人が知らなかった史実やキャメラが入ることができなかった事件を再現することで、観客にさもその場に居合わせた感覚を与える。
その「世界」が説得力のあるかたちで示されたとき、想像力が羽ばたき始める。
それが、映画だと思う。
そんな映画を邪魔するものがある。 嘘くささである。
それはあくまで見る人の主観による、得体の知れない、定義しがたいものだ。
簡単に言えば、え、これ本当なの?あり得ない!と思いながらみることが、「世界」で想像力を飛翔させる翼をへし折ってしまうと云うことだ。
いまもなお進行中の原発事故・被ばくの問題をフィクションで描くことは、限りなくこの「嘘くささ」の臨界点に近づく行為だといまは思う。ドキュメンタリーとして撮る方がよっぽど真実に近づけるし、イコール「実感」に近づくと思える。
白状すると、原発事故直後「フタバから遠く離れて」を撮影始める前、僕はフィクションで事故を描くという選択肢も考えた。今まで劇映画の演出をしてきた自分としては、そちらの方が完成度は上がるように思われた。警戒区域が敷かれ、誰も入れない無人地帯となった原発周辺の町で起きる出来事をフィクションとして描くのは、刺激的なように思えた。しかし、様々なレヴェルで原発事故の被害者・加害者が存在する日本で、虚構としてそれを描くことに少なからぬ抵抗があった。
 それはどういうことか。仮に、双葉町のように原発事故で故郷を奪われた家族の話を、フィクションで描いたとする。できるだけリサーチを行い、現実に即して丹念に「避難の痛み」を描く台本を準備し、俳優に真に迫った真摯な演技を要求する。それをまじめに映画として完成させ、上映したとする。しかし、実際避難した福島の人々や、その人々のために日夜働いているボランティアスタッフがその映画を見たらどう思うだろうか。共感する人々もいるだろうが、ウチの避難所とは違う、ドラマ化しているけど、実際こっちの方がもっと大変だ、と考える人も出てくるだろう。当然だが、避難所の待遇、賠償の進展状況、被曝の濃淡は個人・場所により千差万別であり、一つの物語で代表することなど不可能だからだ。そうなると、映画を「誰のために作っているのか」という問題となる。福島の方々が違和感を感じるのであれば、福島以外の地方、または外国に見せるために撮っているのか? しかし福島について誤解を招くような映画を上映すべきか、という問題にもなる。見せるべき観客が想定できない映画は、映画作家が自分が「よりよくフクシマを理解しているのだ」、と自己主張するマスターベーションに成り果てる。
  この問題は、フィクションとは本質的に、「真実かどうかはどうでもよい」表現手法であることに由来する。真実であるかどうかよりも、おもしろいかどうかが見るものにとって重要であり、”ある程度”の嘘を作り手と観客が共有することができる環境で、初めて成立するものである。例えば、クリント・イーストウッドの「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」を考えてみればわかりやすい。この二作、実際に起きた太平洋戦争・硫黄島での激戦が描かれている。栗林忠道陸軍中将(渡辺謙)やジョン・“ドク”・ブラッドリー(ライアン・フィリップ)など実在の人物も丹念にリサーチされ描き上げられているように見えるが、真偽を知っている人々はこの世に殆ど存在しないからわからない。日本本土の描き方など、これは違うんじゃないの?と思う、誇張演出もあるのだが、映画全体としての密度は突出しており、はっきりいって、そのようなディテールの間違いはどうでもよくなってしまう。それは、描かれている事象を過去としてある程度、我々が距離化でき、安心して物語を受け止めることができるからに他ならない。その事象をけっこう深く知っていて、その真偽を秤にかけながら、虚構を見ることは、安心して物語に入り込んでいけない。平たく言えば、キャラの人間存在を疑いながら見るという体験は、楽しくないのだ。
 「based on a true story(実話に基づいた)」フィクションは、過去であったり、未来であったり、時には外国のことであったりと、見るものがある程度の距離を置いて鑑賞できるときに効果を発揮する。描かれている事象の真偽は「まぁ本当なんでしょう」と気楽に流して、安心できてこそ想像力が羽ばたく。911の5年後、オリバー・ストーンが「ワールド・トレード・センター」を作り、ニューヨーク中で物議を醸したのは、まだ911の傷が癒えない(=距離をとる事がまだできない)ニューヨーカーの心に塩を塗り込むかのように、誇張された叙情性が、多くの人に不快感を覚えたからである。
  原発事故・被ばく問題は、避難民にとり今なおそこにある危機であり、距離をおいて見つめるには早すぎる、と僕は思う。さらに云えば、フィクションを作ることは、その距離化によってあたかも原発事故はもう終わってしまったと宣言し、風化と忘却を助長する行為であると云っても良い。逆に、震災の地震・津波被害については、被害が「確定」してからほぼ2年が経ち、徐々にだが虚構も受け入れる風土が整ってきたのではと感じる。
土本典昭は「映画は考える道具である」といった。それはフィクションだろうが、ドキュメンタリーだろうが当てはまる。現実との距離を測りながら、考える道具としてフィクションかドキュメンタリーかを選択する理性が、いま日本の映画作家に求められる倫理なのかもしれない。

Atsushi Funahashi 東京、谷中に住む映画作家。「道頓堀よ、泣かせてくれ! Documentary of NMB48(公開中)」「桜並木の満開の下に」「フタバから遠く離れて」「谷中暮色」「ビッグ・リバー 」(2006、主演オダギリジョー)「echoes」(2001)を監督。2007年9月に10年住んだニューヨークから、日本へ帰国。本人も解らずのまま、谷根千と呼ばれる下町に惚れ込み、住むようになった。

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