NIGHTFALL Jacques Tourneur 1956 80分
Columbia Pictures
Aldo Ray (Inglorious Bastardsのブラピ!!), Anne Bancroft,
東京フィルメックスのジャック・ターナー特集ではじめて拝見。
強盗たちが奪った大金のバッグを取り違えたために、主人公の商業デザイナーの男が悪者たちに追われる羽目になるというステレオタイプの「犯罪巻き込まれもの」であるにも拘らず、ターナーの手に掛かるとここまで美しく、詩的に、魅惑的になるものかと嘆息してしまう。
誰もがどこか影を抱えたキャラクターで、声を荒げることなく、しゃがれたハスキーボイスでぼそぼそ呟く。分かりやすく明るい性質の人間はだいたい端役に追いやられ、主人公は悪者だろうが、善人だろうが、屈折した性格ばかりでしょせん陽の当たる場所には行くことはないだろうという諦念を抱えた人物だ。陰影を効かせた空間設計(撮影はBurnett Guffey!)と相まり、エニグマティックな謎が深まるばかりのドラマが展開する。
同特集「I walked with a Zombie 私はゾンビと歩いた!」(1943)の上映後で、黒沢清監督が、フィルム・ノワールの定義とは「あれこれ具体的なディテールや挿話が展開するのだが、それが全て合わさると壮大な謎、不可解な闇となり、もはや世界は解読不可能、もうそのままにしておいた方がよい、と恐れおののいてしまう」映画(註:ざっくりした記憶)と話しておられたが、「The Big Sleep三つ数えろ」(H・ホークス)まではいかないにしろ、様々な細部がどこか犯罪のニオイのする闇に繋がっているように感じられ、主人公(Aldo Ray)はもはや逃げられまいという絶望を漂わせているあたりが本当に痺れる。
画面に漂う荒涼感への感性はただものではなく、例えば前半、追っ手の悪者二人にAldo Rayが鉄塔のある湾岸地帯(川岸かも?)にしょっぴかれ、殴られ脅される場面に漲っていた寂寥さはどうだろう。人知れぬ水際というロケーションの美しさは、どこか黒沢清監督の「叫び」を思い出してしまった。
Chris Fujiwara がフィルメックスのパンフに寄せた短めの論考で、ターナー映画の魅力は、ベッドタイムに子どもへ物語を読み聞かせ、心惹かれる体験に似ていると指摘していた。夢か現実か分からぬ、謎に満ちた冒険、魔術、異様なものが頻出し、緊張と期待で観客を虜にするという。(彼のターナー論モノグラフィの副題は、”The Cinema of Nightfall” である!)
夢か現(うつつ)か、生か死か(ゾンビ)、光か闇か。
どちらがどちらだという結論を決して提示することなく、荒涼とした寂しい場所で人々が途方に暮れつつ、謎を抱えたまま生きてゆく。ジャック・ターナーは、映画にしかありえない詩的な往復運動を見せながら、我々を魅了し続ける。