僕は、映画でも音楽でも作品を鑑賞するときはできるだけ予備知識を持たずに
向かい合うようにしている。パンフを読んだり、ネットで検索して、おもしろいかどうか値踏みしてから見る/聞くという傾向もあまり好きではない。ある一つのexpectation/期待にそって、作品を鑑賞するのは作り手にとって失礼だし、アートとはそもそも自己完結しており、何も知らない人に向けて開かれているべきと思うからだ。
というわけで、坂本龍一さんの新作「async」も何も予習もせず、何も情報を取り込まず、まっさらなCDを購入して聴いた。(教授が新作に取り組んでるというのは勿論あちこちで耳にしていたが、内容については耳を塞いでいたというのが正確か。)まず最初に通してtrack 01 からtrack14まで聴いて思ったのは、映像的な奥行きがある作品だな、ということ。無数の惑星がパースペクティブの果てまでつづく宇宙空間に身を委ねながら、ゆるりと視界が歪み、拡張してゆくのをそのまま受け止め、呼吸するような。音楽が三次元的な奥行きへ、聴くものを導いてゆくといったらよいだろうか。まるでタルコフスキーだ、と直感した。
現にタイトルを見るとsolari, stakra, walker, のように、タルコフスキー映画のような曲題がある。これは!と思って、ネットで検索していると、教授が「架空のタルコフスキー映画の音楽」と言っているのを発見。やはり!と手を打った。
実際、この音楽がついた映画こそ見てみたいと思わせるものだった。それはネットであがる動画ではなく、New York でいうとLincoln Center, ベルリンでいうとBelinale Palast、東京でいうとピカデリー系劇場の巨大なスクリーンで上映される映画である。壮大で揺るぎない時間の流れ、一つの世界がそこにあり、音響がその世界のムードを醸成し、人を誘うような。
映像的奥行きにおいては、Track 5の”walker”は傑出している。冬の凍てついたロシアの荒野を、ブーツ姿の男がザクザクと歩を進め、湿地帯の泥地、草むらを分け入ってゆく。とてつもなく芳ばしい(!)草の匂いや、冷えきった大気を覆う霧が素肌に染み込んでくるよう。この男はどこへゆくのだろうか。そこにある時間の持続が、宇宙の摂理そのものにつながっているような、引き延ばされたeternityを饗応させるものだった。
タルコフスキーの言葉で、artistic freedomを否定した言質がある。
I therefore find it very hard to understand it when artists talk about absolute creative freedom. I don’t understand what is meant by that sort of freedom, for it seems to me that if you have chosen artistic work you find yourself bound by chains of necessity, fettered by the tasks you set yourself and by your own artistic vocation. Everything is conditioned by necessity of one kind or another. (Andrey Tarcovsky “Sculpting in Time” より)
アートとは、作り手の内的な葛藤のすべてを反映させたものであるべきであり、それは自由に表現できるというよりも、すべてが必要性の鎖でつながっているものである、という考え。アーティスト自身の生々しい内なる声が、表現に昇華されるとき、それは本人にとり待ったなしの、A,B,Cどれでもいいわけではなく、その間に横たわるA’ のような一点に限られる、ということ。
坂本龍一にとり、async とは、sync の差異とズレの狭間にある一点を照射した、彼自身にとり絶対必要な何かなのではなかろうか。
第一印象として、そう思えた。